Diogenes with a CameraVol.2

対話篇

D

感性ていうのは、ひとに教えられるものなんですか? それとも教えられるようなものではなく、訓練によって身につけるものなんですか? それともひとには感性はもともと備わってるもので、訓練しても身につけられへんもんなのでしょうか?

S

そんな疑問を持ってしまうんは、この状況がそうさせたんかね。さておき、そんなことを聞いても誰も答えてくれへんやろう。ましてや、私もその感性というもんが何たるかを知らんし、それを知っている人間にも会ったためしがないわ。もし君自身がこれについて知ってることがあるんやったら教えてくれ。

ひとそれぞれの感性があるんやと思ってるんです。男には外の仕事をこなす感性、女にはうちの仕事をこなす感性。子供には子供の、老人には老人のそれぞれの仕事を成すべき感性があると思ってるんです。

まず、このご時世に君の言う、男は外の仕事、女は内の仕事としてるという時点で、間違いやと言わなあかんなあ。紀元前のギリシア時代ならまだしも今はもう21世紀や。まず、感性とは善いものやと思っとるんか?

もちろん。悪いものを欲するひとなんていいひんでしょう。

では、感性を善いものとして、その感性から生み出されるもんは全て善いもんだと君は思ってるんか?

善い感性からは善いものしか生み出されへんでしょう。

しかし、君はひとそれぞれに感性があるとゆうた。そしたら、それぞれの感性があるべきで善いも悪いもないんやあらへんか?

たしかにそうですねえ。

たとえ、それぞれの感性が数多くあったとしても、それらの感性はすべてあるひとつの同じ本質的な特性をもっているはずや。そやから、いずれも感性やと言える。この本質的な特性に注目せなあかんねん。

でも、あなたは感性の何たるかは知らないといいはった。であれば、どうやって感性の本質的な特性を探求できはるんですか?

それは人間の魂が巡っているからや。われわれは前に生きていた世界で、ありとあらゆるものを経験してきてる。人が「探求する」とか「学ぶ」とか呼んでるもんは、実はそれを想い起こすことにほかならないんや。

そうやったんですね。

いや、真面目に聞いてもろうたら困る。そんなふうに考えたほうが知らへんことに直面したときに、その探求を鼓舞して、ひとを怠惰に陥ることを防ぐための方便になるんや。

へー。では最初の質問に戻るんですが、感性とはひとに教えられるものなのでしょうか?

感性が何であるかもわからへんのに、その性質を考察するのはいささか無理があるんとちゃうか?

たしかにそうですねえ。

でも、その性質を考察する方法はあるにはあるんや。

どんな方法ですか?

正しいんか間違ってるんかは別として、結論を先に仮定したら、そこから遡っていく手法はどうや。

そうですね。それはよい方法やと思います。

感性とはひとに教えられるものやとする。そしたら、感性は知識ということになるやろ。知識というんであれば、教えられることになる。

はい。

教えられるんであれば、教える教師がいるはずや。しかし、私はこの感性を知識として教える教師に出会ったことがあらへん。

しかし、感性をもってはるひとはこの世の中には少なからずいてはるでしょう。

では、その感性をもったひとが増えへんのはなぜや? 感性が教えられるんやったら、時代が経るにつれて感性を持ったひとが増えてもおかしくないやろ?

たしかにそうですね。

であれば、感性とは教えられるもんではないということになる。

結局のところ、感性は身につけられるもんではないということですね。

そうや。ところで君はその感性というもんを持ちあわせてへんと考えてるんか?

何とも言えませんね。その感性というものが何たるかがわからへんのですから。

しかし、さきほど君は感性をもったひとはこの世の中には少なからずいると言ったんやけど、それはどうやって認識しているんや?

そう言われると難しいですね。

その認識はいつから君に備わってたと思うんや?

いつからでしょう。感性は教わるものやないんで、、、

それが想起というもんや。君はすでに感性というものが何かを知っているわけや。いや、知っていたわけや。生まれる以前から。

なるほど。

君はわれわれの眼前に見えるあの新緑の東の山々、空に浮かぶ雲、そしてあの山から昇る朝日をどう思うんや?

美しいなあと思いますよ。

そうやろ。人間は生まれながらにして“そういうもん”に対して美しいと感じる心の働きを持ち合わせているわけや。つまり、美そのものへの感性は、誰から教わったもんでもなければ、訓練によって身につけたものでもあらへん。

同じようにあなたがつくらはるものにも私は美を見出してますよ。

なるほど。それはあの山と私のつくったもんに君は美しさと等しさを見出したわけや。

そうかもしれません。

そんな君の感性っちゅうもんは、生まれる前から持ち合わせてた普遍的な感性とも言えへんこともないけど、断言はできひんなあ。感性が何たるかは不明のままなんやから。すべては仮定の話や。

あなたにもわからあらへんこともあるのですね。

私も君と同じや。来たるべき明日のための仕込みをせなあかん。

そうでした。忙しいところ申し訳ありません。

いいんや。いつでも話しかけてくれてもええ。私は君の傍におるから。

そうですね。隣ですしね。

近いな。

*テキストは古代ギリシアの哲学者プラトンによる対話篇『メノン』および『パイドン』に想を得た。

プロフィール

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田村友一郎
アーティスト

1977年富山県生まれ、京都府在住。
日本大学芸術学部写真学科卒業。東京藝術大学大学院映像研究科博士後期課程修了。既存のイメージやオブジェクトを起点にしたインスタレーションやパフォーマンスを手掛ける。土地固有の歴史的主題から身近な大衆的主題まで着想源は幅広く、現実と虚構を交差させつつ多層的な物語を構築する。
近年の展覧会に、個展「Milky Mountain / 裏返りの山」(Govett-Brewster Art Gallery、ニュージーランド、2019)、「叫び声 / Hell Scream」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、京都、2018)、グループ展「ISDRSI 磯人麗水」(豊岡市立美術館ほか、兵庫、2020)、「アジア・アート・ビエンナーレ」(国立台湾美術館、台中、2019)、「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(国立新美術館、東京、2019)など。2020年は、ヨコハマトリエンナーレ2020のほか、上海、ベルリンでの作品発表が予定されている。

▶︎田村友一郎ウェブサイト

完